しかしそれは認めてはならない
■評価:良
物語:○ 情報:− 斬新さ:△ 意外性:△ 含意の深さ:○ ムーブメント:△ 構成:○ 日本語:○
お勧め出来る人 :自分の中に「絶対」的な「正しさ」を確立している人
お勧めできない人:自分は心が美しいから汚れた俗世では生きづらいのだと思い込んでいる人
■所感
著者は「ほら、僕って駄目でしょ、こんな人は駄目だよね」と自虐的に自らを否定するような書き方をしているが、その端々から、いや、この作品全体から哀れみを請うような卑屈な態度が伺える。
それは不健全であるから、「社会」としては絶対に認めてはならない。
(個人的に同調したり同情(!)したりするのは構わないが、どちら側に立つかは態度を鮮明にした方がいい)
純粋無垢とは無知のことである。
保護されるべき未成年ならまだしも、「社会」的存在として生きることを義務づけられた者にとって無知であることは許されるべきことではない。
即ち無知は罪のシノニムで、純粋無垢もまた、罪のシノニムである。
「心の弱さ」はどうか。
「自己責任論」に対する批判が強まり、香山さんのような人が勝間さんのような「努力する人」を「強者」だと非難するような(まるで100年以上前のドイツの哲学者の論議を見ているようだ)世の中で、「努力も才能」「自己責任論は乱暴」という風潮が一世を風靡しているように見える。
しかし、では、あなたは身内の人が「アルコール中毒」になったときに、「あの人は心根の優しい人だから」と何から何まで全部許して面倒を見てあげられるだろうか。
いくらそれが「本人の責任」でなくても、この社会の秩序維持のためには、そのような「心の優しさ」は認める訳にはいかないのだ。
著者が鋭く指摘するように、確かに「世間」とは「世間が・・・」「社会が・・・」と語るその人そのもの(この書評を書いている私!)のことであり、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、たとえ目の前にいる(人間としてあまり誉められた性格の者ではない)人1人だとしても、その人を傷つけ、その人に大いに迷惑がかかるような行為は許されることではない(本人が構わないというなら話は別だが)。
勿論「罪を憎んで人を憎まず」の通り、罪の行為主体を「憎む」必要性は全くないが、しかし「罪」はどう言い訳したとしても「罪」である。
それはやはり「罪」のシノニムである「罰」によって贖われなければならないものである。
従って、主人公に加えられた「制裁」(社会による枷)は至極当然のことである。
勿論、主人公の感じていることはまったく理解できないことではない。
主人公が社会に「適応」している人に感じる「気持ち悪さ」には共感出来る部分も多い。
だが、それはやはり「認める」わけにはいかないものなのである。
もし、自分がそのように感じるのならば、それは自分の中に閉じこめてしまわなければならない。
誰もが少なからずそうして「生きて」いる。
それがどうしても出来ない「心の美しすぎる」人は、残念ながら社会から離れてもらうしかない。
そうしなければ、その人は多くの人を巻き込み、社会の秩序を乱し、多くの人を(主人公がそうしてしまったように)人の道からはずさせる。
主人公は人間「と関係することにおいて」失格、なのである。
罪のアント?
それは、「適応」でしょう。