あらかじめ失われし理想
★2009/10/20:原著者nullus本人による加筆修正


 梅田望夫『Web進化論』読んで、失われた「大きな物語」を取り戻す術を発見したような気がした。


 「大きな物語」とは、現代思想家リオタールが用いた用語で、かなり乱暴なまとめかたをすると、人々が共有する理想のようなもの、となる。近代以前であれば間違いなくそれは宗教であるが、当時リオタールが思い描いていたのはおそらく「共産主義」のことであったと思われる。戦時中の我が国で言えば「国体」のようなものを指すといえばイメージが湧くはずである。
 リオタールによれば、現代のポストモダン社会は「大きな物語」が失われた状態にある。すなわち「共産主義」のような共通の理想・価値というものを大勢の者が共有し、その実現に向けて邁進する、というようなことが不可能になってしまっているということである。それが「価値観の多様化」であり、「若者の政治的無関心」もこれによって説明が出来る。


 その背景には、現在の若者の親の世代(学生運動が失敗に終わった後のニヒリズムが蔓延した時期に若者であった者達)の「大きな物語」に対する幻滅がある。そして、彼らがそのことによって捨て去ってしまった「大きな物語」は、その次の世代(すなわち現在の若者)にとっては「あらかじめ失われたもの」となってしまったのである。『動物化するポストモダン』の著者、東浩紀ポストモダン分類を大雑把に引くと、現在の2つ上の世代は「大きな物語」を未だ抱いており、その次の世代(前述した世代)は「大きな物語」に対する郷愁をまだ強く残しているが、更にその次にあたる現在の世代の者は、そもそも「大きな物語」そのものを必要としない(あるいは「大きな物語」なるものの存在すら知らない)ということである。


 前置きが長くなった。
 上記で言いたかったことは、「私を含む現在の若者にとって、物心ついた頃には『大きな物語(社会が共有する理想)』は既に失われていた」ということである。

 少し抽象度が高すぎるので具体化しよう。
 私はかつて「共産主義」について非常に強い興味関心を持って、これを理解しようといくつかの書をひもといたことがあった。ここであらかじめ断っておくが、私はいわゆる「共産主義者」ではない。また、かつて1度もそうであったことはない。私は、旧来から一貫して、共産主義の理想には共感できるところもあり、まったく共感できないところもある、という立場をとっている。特にレーニン以降の国家社会主義に関してはその必然性を疑う箇所があり、スターリニズムなどは論外であると考えている。
 話を元に戻そう。私の数少ない「共産主義」思想学習を通してたどり着いた結論は、次の通りである。「共産主義」の中で理解できる部分というのは、やはり祖のマルクスの理論に限定される。その中で具体的なものを挙げるとすれば、以下の2つになる。すなわち、「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」と「生産手段の共有(必ずしも「国有」ではない)」である。


 しかし、私がこの理解に至った時には、既にそのような理想は「絵に描いた餅」どころか、人々に貧困と不自由をもたらす「最悪の宗教」としての地位が確定していた。共産主義の理想は、ソ連では悲惨な国家財政事情として、中国では「革命」という名の大虐殺として、北朝鮮では絶対的な個人崇拝としてその醜態を露呈していた。
 これらは、マルクスの打ち立てた「共産主義」もまた、「空想的社会主義」の域を出なかったということを証明していた(少なくとも私はそう捉えた)。マルクスは、肝心の「人間」に対する考察が十分ではなかったのである。彼は、誰もが自らと同じように考え、行動し、誇り高い生き方を選ぶはずだ、と考えた。しかし結局「人間」はホモ・エコノミクスであり、ホモ・エコノミクスであることをやめることなど出来なかったのである。そういう意味では、アダム・スミスの方が「人間」をよく理解していたといえる。そしてそれは、「思想改造」程度のことで変えられるような表層的な性質ではなかったのである。


 しかし私は、「社会主義国家の崩壊」という歴史的事実によって、「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」と「生産手段の共有(必ずしも「国有」ではない)」という理想をまでもが否定されたとは考えていない。結局、「共産主義」という理想に対して勝利を収めたのは、人々の「欲望」であった。国家による統制、「死の権力」による抑圧の中でも、「欲望」の持つ力は失われることがなかったというだけのことなのである。そして、人々の「欲望」に火をともし続け、ついに「理想」を打ち破らしめた根源の存在を私は感じ取っていた。それがすなわち「コマーシャリズム」である。
 ここで私が「コマーシャリズム」と呼んでいるものは、狭義の(テレビ)コマーシャル(いわゆる'CM')のことではなく、広く人々の欲望を喚起するような情報が込められた媒体全てのことである。見田宗介現代社会の理論』によれば、資本主義がマルクスの予言に反して崩壊せず、今も発展を遂げ続けているのは、「コマーシャリズム」が人々の「欲望」を生物学的に本来持っている「必要」を大きく上回らせる形で肥大化させ続けてきたからである。私もこの見解を支持する。


 以上のことから、私が「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」と「生産手段の共有(必ずしも「国有」ではない)」という理想の実現のために戦うべき相手は「コマーシャリズム」であると判明した。


 ここで、私の立場を明らかにしておく。前述した通り、私は共産主義者ではない。しかし、人々に不必要な欲望を喚起させ、身体を壊すまでの労働を強いるような現在の資本主義社会は到底肯定できるものではない。そこで「コマーシャリズム」の影響を弱めることで、少なくとも人々が「必要」を越えて肥大し続ける「欲望」を相対化させることが出来れば、少しでも「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」という理想社会に近づくのではないか、と考えこのような言説を展開している、というのが私の立場である。


Web2.0」の衝撃


 梅田氏がその到来を予言した「Web時代」は、私のような「小さな抵抗」を行っている者ですら、Webの力を借りることで、再び「大きな物語」を構築することが出来る可能性があることを示している。


 来るべき「Web時代」に対する梅田氏の予見で、私が注目した点は3つある。1つは「総表現社会」の到来である。これまで情報の発信はマスメディアが独占していた。これはまさに「生産手段」の独占である。そして、マスメディアを支える「コマーシャリズム」に染まった情報だけが一方的に流され続けてきた。これに対して「Web時代」では、1人1人が自分の考えを表現するメディア、「生産手段」を持つことになる。これまで絶対であったマスメディアからの情報は相対化され、同時に絶対的であった価値観も相対化される。


 2つ目は、情報の価値に対する考え方の変化である。これまで情報の価値は、「物」と同様、独占することによって高まると考えられてきた。そして情報がそのような価値を持つ以上、利用するには対価を求めることが当たり前だった。しかし、「Web時代」においては、情報は多くの者に共有され、利用されることによって初めて価値を持つ。そこでは情報は、検索の対象になって初めて「存在する」ことになる。また、課金のためにアクセスを制限する行為は歓迎されず、必然的にその情報の価値を貶めることになる。確かに、マネーを得るためには情報は独占せざるを得ないという「物理法則」は変わらない。しかし、「情報でマネーを得る」ということそのものに対する考え方が変わってきているということが、来るべきWeb時代の特徴なのである。


 そして、3つ目は、まさにそのような「Web時代」を支える人々の新しい価値観である。フリーウェア、オープンソースという考え方は、これまでの「全ての価値には対価を」という考え方からは生まれてこない発想である。また、ウィキペディアリナックスが、それらが多くの無償の努力の集合体から成り立っていながらも、同様の水準の有料サービス・コンテンツに劣らない有用性を保持しているという事実。これは、これまで「対価を得る仕事」か「対価の得られない趣味」のいずれかでしかなかった人々の労働に「対価を得ない仕事」という新しい意味が付与される可能性を示している。そしてそれはまさに、ノーブレスオブリージ、持てる者が持たない者に対して(「尊敬」「賞賛」と引き替えに)与える行為であると私には思えるのである。私は、ここに万人が「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」の理想が実現される可能性を感じ取った。


 これらの特徴は、冒頭で述べたように、私に「大きな物語」の復活の可能性を予感させた。そこで構築されうる「大きな物語」とは、宗教のように人々に絶対服従を強いる類のものではなく、かつての「社会主義国家」のように人々に絶対服従を強いる類のものでもなく、「国体」のように人々に犠牲を強いる類のものでもなくて、「我々が住んでいるこの世界を少しでも良いものとしよう」「人類の叡智を全ての者が共有できるようにしよう」という誰もが望んでいることそのものなのである。「みなが幸せ」「みなが平等」なんて実現しない、という、「大きな物語」を嘲り笑う風潮は、他人との差を強く意識させることで人々の欲望を喚起し、またその差異を強調するために競争を煽るような「コマーシャリズム」が一方的に我々に押しつけている価値観に過ぎない。これまでは、この社会で生きていく限り、これに対抗する術はなかったが、「Web時代」の到来は、これに対抗する手段を、(しかも「個人」に対して)約束しているように私には思える。


Web時代のあるべき姿とは


 以上の考察から、私は、自身の理想とする社会への期待も込めて、未来の情報社会を予測した。その中から、今回の論旨に合うものを、2つ取り上げる。1つは、「知識の切り売りで生計を立てる者がいなくなる」ということである。「Web時代」では、必要な情報は全て無償で手に入れることが出来る。そのような社会において、「知識切り売り」型の商売は成立し得ない。また、そのことにより、これまで「学力」という名の記憶力の多寡が決定づけていた所得の差が(少なくとも以前よりは)緩和されると考える。


 そしてそれとも関連するのが、もう1つにあたる、「作家、芸術家、芸能人、学者らの『総公務員化』」である。
 まず上述のように、「Web時代」では、これら専門的な職業に必要な情報は全て無償で手に入れることが出来るようになる(これが羽生氏の言ういわゆる「高速道路」の概念である)。そして「Web時代」では、誰でもそのような情報を発信できる。さらにこれが最も重要な点であるが、そうやって創造されたコンテンツは、すぐにコピーされて共有される(この点に関しては、私は現在の著作権保護の名を掲げた価値独占のための課金制度は、ネット社会の「知的財産は人類共有のもの」という考えに必ず屈すると信じている)。従って、そのようなコンテンツから生活に必要なマネーを獲得することは出来ない。しかしそれではそのようなコンテンツの質は下がる一方である(何故ならば努力に見合った対価が得られないとなれば、技術を高めることへのモチベーションを維持できないからである。また、それによって生計を維持することも出来ない)。これらのコンテンツは、最初の1回の創造においては固有の価値(すなわち対価が支払われる価値)があるのだが、それをいったい誰から徴収すればよいかが問題となる。
 以上の考察から、次の様な社会システムが1つの現実的な解決策として浮かび上がってくる。即ち、これら特別な技術を持つ者は全て「公務員」として国(勿論「世界政府」でも構わない)が雇用する。そして、全ての者が税金として彼らの創造物の「最初の1回」に対価を支払うのである。勿論、彼らは全ての納税者によって、その作品や活躍ぶりを評価される。彼らは「公務員」ではあるが、その「評価」に応じて対価が支払われるので、「共産主義」の悪しき「平等」がこれらを駄目にしてしまうようなことはないだろう。
 しかし、これでは作品の質、芸の質、研究の質が「大衆受け」するものに偏ってしまうのではないか、という批判は、的を射ていない。何故ならば、「大衆受け」しない作品・芸・研究は、現在の資本の論理においても常に駆逐されているからである。(「大衆受け」しないが)「本当に価値あるもの」は、その「本当の価値」なるものが理解出来る者が支えていくしかない。つまり、独自のパトロンを見つけるしかないが、それは今でもそうであるから、特にこの制度(「総公務員化」)固有の弊害ではない。


Web時代を私はどう生きるか


 人間が人間らしく生きていくために、「大きな物語」は必要である。少なくとも私はそう考える。「大きな物語」を失い、日々の生活と自分の欲望の充足にしか興味をもたなくなれば、早晩人は動物と変わらなくなる。東浩紀氏は、『動物化するポストモダン』の中で、間主観性を失い、欲望−快楽の回路が閉じた者を「動物」と呼んだコジェーヴの用語をもとに、自己の快の中に閉じこもるオタクたちを「動物」と批判したが、「大きな物語」を失った人間の辿る道はオタクたちのそれとまったく同じようになるだろう。そして現代思想用語としての「動物」の段階を経て、やがてほんとうの意味での動物になってしまうだろう。それは人間の破滅を意味している。


 私の美学はそれをよしとしない。私は新たに訪れる「Web時代」の中で、ネットという新しく手に入れたメディア(生産手段)を用いて「コマーシャリズム」に戦いを挑む。既に戦いは始まっている。Web2.0が持つ特長を無化し、Webという新しいフィールドすらも、自らが生き長らえるためのエネルギーとすることを目論む「コマーシャリズム」は、ネット社会の成功者を取り込み、Web2.0への流れをWeb1.0の方向に引き戻そうとしている。
 私は、人間が人間らしく生きるために、そして自分自身人間らしく生きるために、そのような「コマーシャリズム」と徹底的に戦う。そして、ネットという環境で生まれた奇跡のような思想(例えばコピーレフト)が新たな「大きな物語」として人々の間で共有されるようになるよう、あるいは上述したような「Web時代」がもたらすべき「未来」(例えば全てのコンテンツが無料で(ただし最初の1回には皆で正当な対価を支払って)共有される社会)が訪れるよう、私をエンパワーメントしてくれるこのブログという武器を用いて私の理想を発信していく。


 かつての共産主義者に比べると自分のしようとしていることはあまりにも小さい。しかし、彼らがあれほどのカリスマ的指導者と圧倒的な力を要しても成し遂げられなかったこと、すなわち全世界の人々に対して同じ「物語」の共有を(「強制」なしに)訴えかけるということを、私は1人で座りながらにして行うことが出来る。これこそWebが全ての人にもたらした新しい力であり、私が「あらかじめ失われし理想」という現在の状況の中で、希望を取り戻すことが出来たのも、この力に未来を見たからなのである。