映像であることの意味

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の映画を鑑賞した。
期待に反して完成度の高い作品で、感嘆した。
ここまで心を揺さぶられたのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以来のことだから随分と経つ。


本作を一言で表すならば、「愛」という語り得ぬものへの真摯な取り組みである。
その行き着いた先がこの一見して何を表しているのだかよく解らないタイトル(邦題のみならず原題も)に如実に表れている。
存在は証明し得ないのだが、そこに確かにあるもの、それを表現するためには言葉はあまりにも無力である。


欧米の映画はまだこのような、観る者をうならせる作品をつくるだけの力を持っている。
言葉によって書き表すことが出来るものならば活字に勝るものはない。
言葉ではどうしてもこぼれ落ちてしまうもの、それこそがまさに映像の力によって表されるべき「物語」である。
言葉によって既に表現されてしまったものを敢えて映像にする必要はない。
それはどうあがいても「2次創作」の域を出ず(ごく稀に原作を凌駕するような映像作品に出会うことはある)、従って公開前からある程度の収益を約束されている「2匹目のドジョウすくい」以外のないものでもない。
「絵になる」物語を実際に絵にすることは勝手で、それを見て一喜一憂することは自由であるが、私個人はそのような無駄な行為になんら意味を見いださない。


翻ってこの国の最近の映画は・・・と展開しようとしたところで、本作品にも「原作」があることが今更ながら解ってしまった。
というところで「邦画/洋画」のこの観点からの比較はいったん納めることとする。


いずれにしても本作、言葉で記述しようものなら1文で済んでしまう内容ではあるが、実際には言葉の限界を超えたものを表している。
殊日本では種々雑多な「愛」がひとまとめに1文字の漢字でまとめられてしまっている。
本作は本来そうあるべき意味としての「愛」の物語である。
ええい、言葉の壁が鬱陶しくなってきた。
実際に作品を観て確かめて欲しい。
これこそが「映画」だ。